ミックファイアの無敗3冠制覇、セレクションセールで“1億円超え”の衝撃落札…、日本のダート競馬&生産界で歴史的な成功をおさめた種牡馬シニスターミニスター(牡20)はどのように日本へやってきたのか-。導入当初の評判から現在の地位を築き上げるまで、そして、将来の展望を連載「邪悪な大臣シニスターミニスターの成功物語」で取り上げる。第1回は「連戦連敗の貧相な馬」。導入を決めた有限会社アロースタッド(北海道新ひだか町)の岡田隆寛代表に当時を振り返ってもらった。【特別取材班】

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07年夏、日高の若手生産者たちが米国西海岸の競馬場にあるボブ・バファート厩舎を訪れていた。目的はアロースタッドで新たにけい養する種牡馬を探すこと。見せてもらったのは前年にケンタッキーダービーの前哨戦、トヨタ・ブルーグラスS(G1)を圧勝したシニスターミニスターという馬だった。

デビュー2戦目の未勝利戦を8馬身差で圧勝。ブルーグラスSを12馬身4分の3差で大楽勝。ただ、本番のケンタッキーダービーはハイペースで競り合う形から16着大敗。その後はクレーミングレース(オーナーが出走馬を売りに出している競走)などを使っていたものの、連戦連敗だった。

「歩様は良くないし、成績も尻すぼみ。見た瞬間にとにかく貧相な馬という感じで、一緒に見ていた仲間の印象も良くなかった。他にも候補の馬はいました。ただ、私はどうしてもこの馬が欲しかったので、説き伏せたんです」

岡田代表にはこのとき、確固たる信念があった。「エーピーインディの系統の種牡馬が日高にはいなかった。輸入されたエーピーインディの産駒が日本で走っていて、この血統は日本に合うと思っていました。この系統の種牡馬をどうしても日本に入れたかったんです。薄くてもスピードがあって、芝で走る馬も多く出ていましたからね」。念頭にあったのは99年のフラワーCを勝った牝馬のサヤカだった。他にも96年のフェアリーSを制したヒシナタリー、99年のNHKマイルCを制したシンボリインディ、02年の小倉記念を制したアラタマインディなど活躍が目立っていた。

馬名の日本語直訳は「邪悪な大臣」。シニスターミニスターは岡田代表にとって、初めての種牡馬購買だった。「一緒に行った同世代の仲間を説き伏せて、私のごり押しのような形で…。“未来からやってきた”ような馬を買ってしまった」。(つづく)

◆エーピーインディ 父89年生まれのシアトルスルー産駒。日本人の鶴巻智徳オーナーが所有し、ニール・ドライスデール調教師が管理した。3歳シーズンにサンタアニタダービー(ケンタッキーダービーは裂蹄のため回避)、ベルモントS、BCクラシックを勝って、米年度代表馬に輝く。種牡馬としても産駒の活躍で02年には種付け料が30万ドルになるなど、偉大だった。20年に死亡。