◆作家・江上 剛◆
2013年にミャンマーを訪れ、取材した。
アウン・サン・スー・チー氏(以下スー・チー氏)が実権を握り、民主化が実現しつつあった時だった。今回、軍がクーデターを起こし、再び、スー・チー氏を軟禁してしまった。軍のトップが政治の実権を奪い返したのだ。
国民はクーデターに反対する声を上げている。以前のように流血の大惨事にならなければいいのにと思う。
欧米を中心に国際社会もクーデターを強く非難している。日本も先進7カ国(G7)の一員として非難声明に加わっているが、どうも力がこもっていないような気がする…。
◆8年前に感じた「軍の焦り」
取材した当時、ミャンマーは「ラスト・フロンティア」と呼ばれていた。米国の制裁も徐々に解除されつつあり、米国企業の進出も始まっていた。日本も負けじと、多くの企業が進出を始めていた。また、安倍晋三前首相肝煎りのティラワ工業団地の建設が進んでいた。
私は、取材を通じて、軍がスー・チー氏の政治に焦っているのは感じていた。その理由は、真偽はともかく、ミャンマーには膨大な軍の既得権益があるとされていたからだ。
当時、地価が異常なほど上昇していた。進出していた日本企業の幹部が「銀座並みに高いんです」と嘆いていたのを覚えている。銀座並みと聞いて、冗談だろうと思った。
ヤンゴンなどの主要都市には、広大な土地があるのだが、ほとんどが軍の所有であり、民間が使える土地が少ないために地価が高騰するのだ、とその幹部は教えてくれた。
また軍は、巨額の年金資産を持っており、それをシンガポールの銀行に預けて、ミャンマーの土地に投資しているといううわさもあった。
スー・チー氏が、こうした軍の財産的利権に手を付けるようなことがあれば、大きな問題になるだろうといわれていた。
軍は、スー・チー氏の力をそぐため、必死になっていたようだ。例えば、外国人の伴侶がいる(現在は亡くなっている)スー・チー氏は大統領になれない、という規定を定めたり、選挙干渉を行ったりしていた。
◆スー・チー氏は日本びいき?
また、こんな話も聞いた。
スー・チー氏の父親であるアウン・サン将軍は、日本軍の協力を得て、英国と戦って独立を成し遂げた英雄だ。ただし、日本の敗戦が濃厚になると、英国と手を組み、抗日戦線を指揮することになるのだが、いずれにしても、日本とは縁が深い人物だ。
だから当然、スー・チー氏は日本びいきだ、と思ってる日本人は多い。しかし、現地で聞いた話では、どうもそうでもないらしい。
日本は、ミャンマー(ビルマ)とインドの国境でインパール作戦を行い、多くの戦死者を出した歴史がある。どうして、それほどミャンマーに固執したかといえば、援蒋ルートと呼ばれる、英米による蒋介石支援を断ち切るためだった。
ミャンマーという国は、地政学的に非常に重要な位置にあるのだ。中国がインド洋に出て行くためには、絶対に通過しなくてはならない国であり、中国と戦っていた日本にとっては、絶対に中国に取られてはいけない国がミャンマーなのだ。
このことは、今も昔も変わらない。そこで日本政府は、軍事政権時代も、強力な制裁を実施する米国の目をかいくぐって(?)、人道援助名目で支援し続けていたのだ。
それは、中国も同じだった。日本が支援しなければ、ミャンマーは全面的に中国に依存することになる。これは日本としては、何としてでも阻止したい。これが日本政府の考えだった。
◆贖罪と感謝の思い
また、日本はミャンマーに、歴史的に贖罪(しょくざい)と感謝の思いを抱いている。
小説「ビルマの竪琴(たてごと)」で知られているように、ミャンマーを戦時中に支配下に置いたことや、インパール作戦で亡くなった多くの日本兵がその土地に眠っているからだ。日本兵が退いた道は「白骨街道」と呼ばれ、当時の悲劇を今に伝えている。
いずれにしても、ミャンマーの軍事政権は、したたかに日本と中国をてんびんに掛けつつ、両国からうまく援助を引き出していた。
その結果、軍事政権が生き延びることになった。こんな理由から、スー・チー氏は日本のことが嫌いになったらしい。当然、中国のことも嫌いだろうと思う。
今回の軍事クーデターの背後に、中国がいるとのうわさがある。スー・チー氏に嫌われていた軍と中国が手を結んで、自分たちを排除しようとするスー・チー氏から、政治的実権を奪い取ったと想像するゆえんである。
◆形式的な民主化
当時の取材を思い出とともに振り返ってみたい。約8年前だが、少しは参考になることもあるだろう。
私がミャンマーを訪れたのは、民主化の2年後だった。
ミャンマーは、長く軍事政権が続き、米国から経済制裁を受け、国民は貧困にあえいでいた。日本にもミャンマー難民が多く住んでおられる。
国際社会の非難に耐えかねて、10年にスー・チー氏が自宅軟禁から解放され、翌11年には、軍事政権から民主政権に政権移譲が行われた。これによって、軍政は終わりを告げた。しかし、単純に「民主化万歳」とは言えない状況だった。
というのは、これは軍事政権のシナリオに沿った形式的な民主化だったからだ。民主化を装っただけで、中身はあまり変わっていなかったということだ。
しかし、ミャンマー経済は一気に回復し、「ラスト・フロンティア」と称せられるまでに、日本をはじめ、各国の投資熱が過熱するようになった。
軍事政権を逃れて日本に暮らしていたあるミャンマー人は、民主化後のミャンマーに帰国した際、浦島太郎になった気分だったという。
街中には、ドアが閉まらず座席はバネがむき出しのボロタクシーが1台もなく、新しい日本車が縦横無尽に走っていたからだ。「本当に驚いた」。日本語のできる彼には、進出する日本企業から仕事のオファーが引きも切らない状態になったという。
民主化のおかげで、彼らミャンマー人の生活は一変し、豊かさが実感できる方向に向かっていったのだ。
◆ミャンマーは資源国
さて、当時の私のリポートを引用しながら、ミャンマーについて概括してみよう(データや肩書、状況などは当時)。
ミャンマーは、インドシナ半島の西にあり、中国、ラオス、タイ、インド、バングラデシュと国境を接し、国土は日本の約1.8倍の広さ。人口は約6000万人。
民族はビルマ族が約70%を占めるが、他にシャン族、カレン族など130余りの民族で構成されている多民族国家だ。
行政組織は、七つの管区と七つの州に分かれている。管区はビルマ族、各州はそれぞれの民族が多数派を占めている。国名が連邦共和国となっている意味はそのためだ。多民族国家の統治は難しく、今でもカチン族との間に民族対立の軍事争いが続いている。
また、宗教は約90%が小乗仏教(上座仏教ともいう)だが、イスラム教徒やキリスト教徒も数%程度存在している。そのため、イスラム教徒が多く住むヤカイン州では、仏教徒とイスラム教徒との対立が発生し、多くの死者を出す暴動へと発展したことがある。
経済的には、12年の1人当たりGDP(国内総生産)が835ドル(国際通貨基金統計)、また1人当たり1日約1ドル以下の消費支出を基準とした貧困率は32%(05年世界銀行統計)であり、東南アジア諸国連合(ASEAN)ではカンボジア、ラオスに続く貧しさだ。
産業は、人口の70%が農民で米が中心。製造業はGDPの約20%を占めるが、原材料を輸入し、完成品を全て輸出に回し加工賃を得る「CuttingG、MakingG、PackingG」と言われる委託加工が主だ。
特徴は、資源国だということ。天然ガスの他に銅、鉛、タングステンなどの鉱物資源も豊富。しかし、これらを開発し、どのように付加価値をつけていくかは、これからの課題だ。
◆ビルマの竪琴
日本との関わりは、歴史的にも深い。「18世紀末には、ミャンマーは紛れもなく、東南アジア最強の国家であった」のだが、アジアへ勢力を伸ばしていた英国と対立し、1885年には実質的に植民地となってしまう。しかし、20世紀に入ると、独立運動が盛んになる。
その頃、日本はインドシナ半島進出を図っていた。それはミャンマーが地政学的に非常に重要な位置を占めていたからだ。中国で日本と戦う蒋介石は、ミャンマーを経由する援蒋ルートを通じて連合国から支援を得ていた。日本は何としても、これを断つ必要があった。
そこで日本は、英国からの独立を果たそうと戦うアウン・サンらに注目する。彼は、民主化のリーダーであるスー・チー氏の父だ。
日本は彼らを支援し、共に英国と戦う。その結果、1942年に日本はミャンマーを支配し、軍政を敷く。独立ができると信じていたアウン・サンらは、日本に裏切られたと知り、抗日運動に転ずる。
日本は、ミャンマーでインパール作戦などに約30万人の兵力を投入し、約20万人の尊い命を失った。
ドイツ文学者、竹山道雄は、日本軍の悪口を言うのが正義だとする当時の風潮に抵抗して「義務をつくして苦しい戦いをたたかった人々のためには、できるだけ花も実もある姿として描きたい」(同書巻末「ビルマの竪琴ができるまで」竹山道雄)という思いから、終戦間もない46年から48年にかけて「ビルマの竪琴」を発表した。
竹山は、ビルマ戦線には行かなかったが、鎮魂のためにビルマ僧となる水島安彦上等兵の物語は、非常にリアリティーがあり、多くの人の感動を呼び、今も読み継がれている。私たちがミャンマーは知らなくても、「ビルマの竪琴」により、「ビルマ」に親しみを持つのは本書の功績だろう。
◆ヒラリー来訪のインパクト
ミャンマーは、日本の撤退後、植民地支配を再開した英国と戦い、ようやく48年に独立を果たす。アウン・サンは、その日を迎えることなく47年に暗殺され、32歳の短い生涯を終えるが、今も独立の英雄として慕われている。
ヤンゴン市内の景勝地、カンドージ湖のほとりにアウン・サンの像が立ち、暗殺された7月19日は、殉教者の日として休日となっている。
さて日本は、戦後もミャンマーへの支援は惜しまず、63年に経済技術協力協定を締結して以来、国際社会においてミャンマー支援をリードしてきた。
88年、ミャンマーに軍事クーデターが起き、軍事政権が発足した。それに反対するスー・チー氏は弾圧され、自宅軟禁となった。こうした事態に欧米諸国は、経済制裁を実施し、そのためミャンマー経済は低迷した。
2003年にスー・チー氏が、再度、自宅軟禁されるに及んで、米国は対ミャンマー経済制裁法を制定して、全面的な経済制裁に踏み切った。日本は米国と平仄(ひょうそく)を合わせざるを得ず、新規支援は見合わせることとなった。
それでも日本は、毎年2500万ドルから5000万ドル程度の緊急性、人道的支援を継続してきた。
10年、スー・チー氏の自宅軟禁が解かれ、その後、ミャンマーはテイン・セイン大統領の下で、民主化に大きくかじを切った。11年にはヒラリー・クリントン国務長官がミャンマーを訪問した。
「ヒラリー・クリントンが来たインパクトは大きかった。雪解けのイメージが一気に広がりました。ヒラリー前、ヒラリー後といわれるほどです」(APEXトラベル代表、中村英司氏)。
12年に米国は、ミャンマーへの経済制裁措置をほぼ全廃した。その結果、猛烈な勢いで、日本や欧米企業のミャンマー詣でが始まったのだ。
◆言論の自由
「この国は、明治維新と経済成長を同時に経験しているんです」(インフィニアキャピタル代表イアン・トゥ氏)。ミャンマーは今、「最後のフロンティア」と呼ばれている。
民主化で大きく変わったのは、言論の自由化だった。新聞規制が撤廃されたのだ。
「以前は、1週間に1回だけしか発行が認められていませんでした。それも政府の検閲を通らなければ発行できませんでした。12年には、その事前検閲は廃止されましたが、政府批判は許されませんでした。そして13年4月1日から全て自由になりました。しかし、何でも書けるかというと、質問しても大臣が答えなかったり、記事内容に関して私たちを訴えたりするようにもなりました」(有力紙の一つ「THE VOICE」編集局長チョウ・サンミン・チョウ氏)。
チョウ氏は、赤字覚悟で新聞を発行し続けてきた。それは「以前のように軍事政権に戻らないようにメディアを通じて問題を発信しなくてはならない」という覚悟からだ。
別の有力紙の編集長は、民主化で最も変化したのは「人間の精神力」だと言った。
国民がメディアによって知る権利が保障されたため、「今まで農民は、政府に勝手に土地を取り上げられても声を上げることができなかったのですが、今は、デモをすることができますし、そういう勝手な振る舞いもなくなりました」。
たとえ軍事政権が書いたシナリオに沿った民主化であっても、国民の多くは、歓迎し、「帰らざる河」の思いが強いのだ。
軍事政権時代に、ジャーナリストたちは弾圧を受けたり、逮捕されたりした。民主化によって、言論の自由を獲得した彼らは、それを武器にして、本格的な民主化を進めようとしていた。
ヤンゴン市内には、あちこちに新聞を置いたスタンドがあり、90%以上とされる識字率の非常に高い国民は、情報に飢えたように新聞を読みふけっていた。
「ミャンマー人は、誰もが軍事政権を嫌っています。しかし、まだまだ軍事政権に関わった人が権力を握り、民主化後の成功者となっている事実を考えると、ミャンマーはもっと変わらねばなりません」(ヤンゴン外国語大学準教授ヤントゥナイン氏)。
◆軍と既得権益
13年当時、民主化推進派の人々の最大の関心事は、15年11月の総選挙だった。
総選挙でスー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が勝利を収め、一気に軍事政権下に定められた憲法が改正され、外国人伴侶を持ち、子供たちが英国籍であるスー・チー氏が国家元首になれるかどうか。これが最大の関心事だった。
結果は、NLDが連邦議会の上下両院の議席の合計491のうち390議席を獲得という圧倒的勝利を収めた。しかし、スー・チー氏は大統領になれなかった。
さらに、20年11月の総選挙でも、NLDは396議席、83%の議席を獲得し圧勝した。
この間、同年にNLDは、本格的な民主化憲法草案を議会に提出したが、軍関係議員の反対で憲法改正は頓挫してしまった。
議会は、議員の25%が国軍司令官の指名枠だ。憲法改正には、議員の75%以上の賛成が必要であり、彼らが反対するため改正ができないのだ。軍人たちは、本格的な民主化によって、既得権益が剥奪されることを恐れていたのだ。
一方、何度も総選挙で圧勝するにもかかわらず、形式的な民主化のままで本格的な民主化が進まない国民の中には、憤まんがたまり続けていたのだ。
◆スー・チー氏に対する評価
取材当時、軍人出身のテイン・セインが大統領だった。
「テイン・セイン大統領の人気が上がっている。スー・チー氏は中国企業が開発するレパダウン銅山の補償問題の仲裁に入り、中国寄りの判断をしたということで、失望を買っている。民主化が順調に進み、スー・チー氏率いるNLDは存在意義が薄くなっている」(ジェトロ〈日本貿易振興機構〉ヤンゴン事務所海外投資アドバイザー山口哲氏)。
「テイン・セイン大統領は、15年の選挙に勝つために民主化の恩恵を国民に『見える化』する必要を感じています」(ミャンマー中央銀行IMFゼネラルアドバイザー田中克氏)。
軍事政権側は、国民に民主化の恩恵を与える努力はしていたのだが、国民が本格的な民主化を求める声を抑えることはできなかったのだ。
国民の間には、軍事政権が意図的に流した情報の可能性があるが、真偽はともかく、スー・チー氏の政治的能力を疑う声があったことは事実だ。
しかし、ジャーナリストたちは「スー・チー氏は、重要なリーダーで、彼女の存在は、軍事政権に戻らないための歯止めです」「ミャンマーのために家族を犠牲にした彼女を尊敬しています」と言う。
総選挙の結果を見ると、ミャンマーの本格的な民主化のための、スー・チー氏の存在の重要性は毀損(きそん)されることはなかったのだろう。
私は当時、感想として、著作「負けない日本企業」(講談社)に次のように書いた。
スー・チー氏は、依然としてミャンマー国民に根強い人気があるのだ。憲法改正や15年の選挙において、テイン・セイン大統領が彼女の扱いを間違えれば、大きな混乱を招く可能性がないとは言えない。
その時は、彼女を支持してきた米国と、軍事政権を支持してきた中国とがミャンマー利権をめぐって激しく対立する姿が具現化するのではないだろうか。
私たちが帰国した約1週間後の10月14日深夜、宿泊していたトレーダーズホテルでテロと思われる爆破事件が発生した。ミャンマーの民主化の行く末は、まだまだ不安定で慎重に注視していく必要がある――と。
ミャンマーには、日本企業が440社も進出している。冒頭にも書いたが、安倍前首相が力を注いだティラワ経済特区も活況を呈している。そこでは、クーデター勃発後にもかかわらず、日本企業は操業を再開しているようだ。
しかし、ヤンゴンを中心に数十万人もの人々の抗議デモが展開され、軍による鎮圧も行われようとしている。不穏な空気は収まっていない。流血の惨事だけは回避してもらいたいと願う。
◆日本への期待
取材中、いい話を聞いた。これも著作に書いているが、当時76歳のミィンウェイという政府高官だった人物からの話だ。彼は1958年に日本の東京工業大に留学した。その時のことを次のように語った。
「今の政権には日本精神が流れているんです。日本に留学した者の80%は帰国しました。それは先生や世話してくれた日本人の方々が『国に帰って発展に貢献しなさい』と教えてくれたからです」
「欧米に留学した者は、2%も帰国しなかった。彼らは『帰国しなくてもいい。自分のために稼ぎなさい』と教えられたんですよ。ミャンマーの発展にとって日本の教育は本当にいいんです」
彼は当時、日本に留学生を送り、その世話をする団体の責任者を務めていた。彼は、日本に送り出した留学生たちが「国の発展に貢献する」精神を身に付けて帰国してくれることが、最大の希望だと言った。
ミャンマーの民主化による新しい国づくりには、日本の力が、どこの国よりも必要だと彼は考えていた。うれしいではないか。
軍事政権は、米国の経済制裁により、中国との関係を深めた。中国雲南省とミャンマー西部の港チャオピューを結ぶ約770キロの石油パイプラインは、その象徴だが、多くのミャンマー人は怒っている。
「中国人の労働者だけが働き、全くミャンマーに恩恵はなかった」「自然破壊が甚だしい」「どうして中国の利益のためにミャンマーが犠牲になるのか」などなど。こうした声は当時、取材中に多く聞いた。
ミャンマー人は、決して中国を快く思ってはいないのだ。アンチ中国としてミャンマー人は日本に期待している。
そして、いったん獲得した言論の自由などの民主化による「人間の精神力」の変化は、変えられるものではない。
日本政府は、ミャンマーの人たちの声に耳を傾け、支援策を間違えてはいけない。
もしも、ミャンマー国内が表面上落ち着きを取り戻したからといって、軍事政権に肩入れするようなことがあっては、せっかく日本びいきのミャンマー国民から総スカンを食らってしまうだろう。
(時事通信社「金融財政ビジネス」2021年3月4日号より)
【筆者紹介】
江上 剛(えがみ・ごう) 早大政経学部卒、1977年旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)に入行。総会屋事件の際、広報部次長として混乱収拾に尽力。その後「非情銀行」で作家デビュー。近作に「人生に七味あり」(徳間書店)など。兵庫県出身。
からの記事と詳細 ( ミャンマーのことをもっと知ってほしい、重要な国だから【怒れるガバナンス】 - 時事通信ニュース )
https://ift.tt/39iBuF1
No comments:
Post a Comment