Pages

Monday, March 22, 2021

ミャンマーのことをもっと知ってほしい、重要な国だから【怒れるガバナンス】:時事ドットコム - 時事通信

作家・江上 剛

 2013年にミャンマーを訪れ、取材した。

 アウン・サン・スー・チー氏(以下スー・チー氏)が実権を握り、民主化が実現しつつあった時だった。今回、軍がクーデターを起こし、再び、スー・チー氏を軟禁してしまった。軍のトップが政治の実権を奪い返したのだ。

 国民はクーデターに反対する声を上げている。以前のように流血の大惨事にならなければいいのにと思う。

 欧米を中心に国際社会もクーデターを強く非難している。日本も先進7カ国(G7)の一員として非難声明に加わっているが、どうも力がこもっていないような気がする…。

 ◆8年前に感じた「軍の焦り」

 取材した当時、ミャンマーは「ラスト・フロンティア」と呼ばれていた。米国の制裁も徐々に解除されつつあり、米国企業の進出も始まっていた。日本も負けじと、多くの企業が進出を始めていた。また、安倍晋三前首相肝煎りのティラワ工業団地の建設が進んでいた。

 私は、取材を通じて、軍がスー・チー氏の政治に焦っているのは感じていた。その理由は、真偽はともかく、ミャンマーには膨大な軍の既得権益があるとされていたからだ。

 当時、地価が異常なほど上昇していた。進出していた日本企業の幹部が「銀座並みに高いんです」と嘆いていたのを覚えている。銀座並みと聞いて、冗談だろうと思った。

 ヤンゴンなどの主要都市には、広大な土地があるのだが、ほとんどが軍の所有であり、民間が使える土地が少ないために地価が高騰するのだ、とその幹部は教えてくれた。

 また軍は、巨額の年金資産を持っており、それをシンガポールの銀行に預けて、ミャンマーの土地に投資しているといううわさもあった。

 スー・チー氏が、こうした軍の財産的利権に手を付けるようなことがあれば、大きな問題になるだろうといわれていた。

 軍は、スー・チー氏の力をそぐため、必死になっていたようだ。例えば、外国人の伴侶がいる(現在は亡くなっている)スー・チー氏は大統領になれない、という規定を定めたり、選挙干渉を行ったりしていた。

 ◆スー・チー氏は日本びいき?

 また、こんな話も聞いた。

 スー・チー氏の父親であるアウン・サン将軍は、日本軍の協力を得て、英国と戦って独立を成し遂げた英雄だ。ただし、日本の敗戦が濃厚になると、英国と手を組み、抗日戦線を指揮することになるのだが、いずれにしても、日本とは縁が深い人物だ。

 だから当然、スー・チー氏は日本びいきだ、と思ってる日本人は多い。しかし、現地で聞いた話では、どうもそうでもないらしい。

 日本は、ミャンマー(ビルマ)とインドの国境でインパール作戦を行い、多くの戦死者を出した歴史がある。どうして、それほどミャンマーに固執したかといえば、援蒋ルートと呼ばれる、英米による蒋介石支援を断ち切るためだった。

 ミャンマーという国は、地政学的に非常に重要な位置にあるのだ。中国がインド洋に出て行くためには、絶対に通過しなくてはならない国であり、中国と戦っていた日本にとっては、絶対に中国に取られてはいけない国がミャンマーなのだ。

 このことは、今も昔も変わらない。そこで日本政府は、軍事政権時代も、強力な制裁を実施する米国の目をかいくぐって(?)、人道援助名目で支援し続けていたのだ。

 それは、中国も同じだった。日本が支援しなければ、ミャンマーは全面的に中国に依存することになる。これは日本としては、何としてでも阻止したい。これが日本政府の考えだった。

 ◆贖罪と感謝の思い

 また、日本はミャンマーに、歴史的に贖罪(しょくざい)と感謝の思いを抱いている。

 小説「ビルマの竪琴(たてごと)」で知られているように、ミャンマーを戦時中に支配下に置いたことや、インパール作戦で亡くなった多くの日本兵がその土地に眠っているからだ。日本兵が退いた道は「白骨街道」と呼ばれ、当時の悲劇を今に伝えている。

 いずれにしても、ミャンマーの軍事政権は、したたかに日本と中国をてんびんに掛けつつ、両国からうまく援助を引き出していた。

 その結果、軍事政権が生き延びることになった。こんな理由から、スー・チー氏は日本のことが嫌いになったらしい。当然、中国のことも嫌いだろうと思う。

 今回の軍事クーデターの背後に、中国がいるとのうわさがある。スー・チー氏に嫌われていた軍と中国が手を結んで、自分たちを排除しようとするスー・チー氏から、政治的実権を奪い取ったと想像するゆえんである。

 ◆形式的な民主化

 当時の取材を思い出とともに振り返ってみたい。約8年前だが、少しは参考になることもあるだろう。

 私がミャンマーを訪れたのは、民主化の2年後だった。

 ミャンマーは、長く軍事政権が続き、米国から経済制裁を受け、国民は貧困にあえいでいた。日本にもミャンマー難民が多く住んでおられる。

 国際社会の非難に耐えかねて、10年にスー・チー氏が自宅軟禁から解放され、翌11年には、軍事政権から民主政権に政権移譲が行われた。これによって、軍政は終わりを告げた。しかし、単純に「民主化万歳」とは言えない状況だった。

 というのは、これは軍事政権のシナリオに沿った形式的な民主化だったからだ。民主化を装っただけで、中身はあまり変わっていなかったということだ。

 しかし、ミャンマー経済は一気に回復し、「ラスト・フロンティア」と称せられるまでに、日本をはじめ、各国の投資熱が過熱するようになった。

 軍事政権を逃れて日本に暮らしていたあるミャンマー人は、民主化後のミャンマーに帰国した際、浦島太郎になった気分だったという。

 街中には、ドアが閉まらず座席はバネがむき出しのボロタクシーが1台もなく、新しい日本車が縦横無尽に走っていたからだ。「本当に驚いた」。日本語のできる彼には、進出する日本企業から仕事のオファーが引きも切らない状態になったという。

 民主化のおかげで、彼らミャンマー人の生活は一変し、豊かさが実感できる方向に向かっていったのだ。

  ◆【怒れるガバナンス】バックナンバー◆

Let's block ads! (Why?)


からの記事と詳細 ( ミャンマーのことをもっと知ってほしい、重要な国だから【怒れるガバナンス】:時事ドットコム - 時事通信 )
https://ift.tt/3cZmgFD

No comments:

Post a Comment