
多様性を尊重できない教室
今日、「多様性」の尊重・承認は、どの分野においても重要視されている。この点は、教育政策においても、決まり文句のように語られている。しかし、その実態はかなりあやしい。
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たとえば、学校教育が、男女という性別をめぐる固定観念・偏見からどれだけ抜け出せているかどうかを考えただけでも、そのことがよくわかるのではないか。世の中では、ようやく「性の多様性」という言い方が一般化しつつあるとはいえ、学校文化はまったくそれに対応していない。
ほかにも、日本語指導が必要な外国にルーツをもつ子どもたち、また、さまざまな障害のある子どもたちが安心して学べる環境が未だに整備されていないことを考えても、多様性の尊重が実態を伴っていないことがよくわかる。それどころか、むしろ近年、このような子どもたちを普通学級から排除していく方向が顕著となってきている。
また、不登校の子どもたちに対しても、「別の場所を用意するから無理して来なくていいよ」といった趣旨の法律(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律)が2016年に制定されている。無理しなければ行けなくなるような学校にこそ問題があるはずなのだが、なぜか子どもに問題があるかのように語られてしまう。
しかも、この「排除」は、「その子に合った指導を」という言い方で進行する。結果として、子どもたちの多様な出会いの機会はどんどん失われていく。人権保障は、人々の「多様性」を否定したところでは成り立たない。
道徳教育での対応は正しいのか
いま挙げた学校教育から排除されうる人々は、日本社会にあっては差別の対象ともなっている(学校からの排除が教育を受ける権利への侵害のひとつなのだから、すでに学校において差別が始まっているのだが)。
この「排除・差別」を、制度的に分析していくことはとても重要な課題であるが、ここで着目したいのは、学校において、「思いやり」や「やさしさ」といった心の問題として「差別」問題が扱われようとしている点である。と同時に注目すべきは、その主たる場が「道徳教育」(2018年度からは「特別の教科 道徳」という教科になった)であるという点だ。
道徳の授業は、個人の「心のあり方」を問題とする。一見すると、個人の道徳性のあり方から差別問題などの社会的な課題に対応していくことには、効果があるように思える。なぜそう思ってしまうのか。それは、さまざまな差別問題は、つねに具体的だからである。ある特定の誰かに起こる問題であり、そこでは個人的な、ある人とある人との狭い範囲の関係のあり方が目立つからである。
しかし、そうした視点だけでは差別について十分に考えることはできない。すぐ後に述べるように、差別は個人的な「人間関係」を超えた、より広い社会関係の中で起きる。
現行の道徳教育では、「狭い関係性」にばかり注意が集まってしまい、その関係の中に、社会的に仕組まれたより広い構造的課題が凝集しているのではないか、と考えることができない。「心のあり方」を問題とする道徳の枠組みでは、この社会的な構造は問えない(現在の道徳教育で社会問題が扱われていないということではない。そこでの視点の問題である)。
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